2011年1月27日木曜日

湘南ネットワーカーズ




先日の日曜日に開催された湘南国際マラソン。

最近始まったようだけど、もう第5回にもなるんだそうです。

チャリや原付や車でよく使うR134も、数万人のランナーで埋め尽くされた。

いやぁ、圧巻。



当日はヒザ〜モモくらいのコンディションで、まぁまぁ楽しめそう。
海の方も混雑しており、この日は湘南の1年でも陸海問わず最もスポーツマンに溢れた1日だったのか。




この辺はフルマラソンの走者たちが折り返していく大体20kmぐらいの地点?になるそうで、徐々に疲れの色が見え始めてる。苦しそうな人も多い。



別に毎年応援に行くわけじゃないけど




母&姉と



親父の走りをちょろっと見に。


毎年出場しているけど、今年は調整が全くできておらず、

「豪雨で中止になんねぇかなー」なんて小学生並の弱気発言をしてた。

けど走りだしちゃえば、まぁ楽しそうでした。



いやぁ、みんな走って、息切らせて、汗かいて、

身体感覚を求めている。
デジタル化やコンビニ化でどこかに消えてしまっている感覚を取り戻そうとしているのかな。





、、、ん?


んぅ?


ん!?



そうなんです。

大概のマラソン大会がどんなテンションで行われているのか知らないけど、
湘南を走るランナーには、こういう遊びがけっこう溢れていた。


その昔、たしか中世くらい。
まだ社会の流動性はおろか、藩や村レベルでしか共同体が成り立っていない頃、しかもヒエラルキーがしっかりと成り立ち&世界一戸籍の登録が進んでいた日本では自由な移動や行動は不可能だった。

そんな時代に唯一自由に土地を行ききしていたのが「虐げられたもの」か「芸能の民」だった。特に芸能者たち(テレビに出てるヤツらとはまるで違うよ)は派手な出で立ちで派手な行動をしながら、手につけた芸のみでノマドな生活をおくりながら縦社会を横に移動するネットワーカーだった。彼らはバサラだのカブキ者(傾く)と呼ばれた。

異端者が文化の幅を何倍にもつくっていた。



現代じゃ土地の移動程度でもうネットワーカーとは名乗れないくらい、流動性に溢れているけれど、

湘南にはまだまだカブキ者たちがおりましたよ。




カブキfrom中国的な?


すいません、未熟な俺には意味がわかりません。


みんなノリがいい


河童も走る。


ヒョウ?虎?も走る。
しかしお疲れeye of the Tiger.


パンダも走る。
けどどこかシュールな匂い。怪しい。カブキレベル高し。


伊達直人ぉぉぉぉ!

あらゆる土地に現れながら幸福を落としていく。
土地の移動だけじゃなくもたらすのは文化でありムーブメント。
コンテンツ的にもまさに現代版ネットワーカーだな!



かっこよすぎです。


ミニーちゃんは視覚障害者の方の伴走。

景色が見えない中で、どんな気分で走っているんだろう。



近所のオバハン?
ベストスマイル賞。


このレベルの衣装はランニングパフォーマンスにモロ影響でしょ。
おじちゃんもしんどそう。

流した汗の分だけ、決勝ではオーストラリアをぎゃふんといわせてやりたいもんです。



他にもナウシカやら、バルタン星人やら、スパイダーマンやら、サラリーマンやら、
それはそれはバラエティに富んでおりました。


みんな遊べる余裕があるよね。


だったら遊んでやりましょうぞ。




観る方だって負けじと。



嫌いだけど、ちょっと走りたくなった。



2011年1月15日土曜日

龍馬のつくりかた




「龍馬伝」「白洲次郎」「ハゲタカ」といったNHKを代表するドラ

マをしかける演出の大友啓史さんが昨日SFCにきて約2時間の講演

をしてくれた。タイトルは「私の映像制作論」。



講演は主に龍馬伝を用いて大友さんの考える映像制作の在り方を話

してくれた。


思ったことは、テンションが高くて男くさい割にスゴく緻密に土台

を固めていくこと。色んな人の意見や色んな考え方や色んな龍馬像

があるなかで、どうしたら自分の価値観や考えをカタチにしていけ

るか。


ってか大河ってつまんなくない?

ってかなんで歴史モノのカツラってあんなダサイの?

ってか髷ってなんであんな男根みたいなヤツしかないの?


ここまでは思うだけなら誰でもできる。

次に形としてあらゆる反対意見をかわしながらChangeしていかない

といけない。ここのストイックさに心底驚いた。


それは根拠をとっていくということ。様々な資料を元に当時の様子

を調べまくり、直筆の手紙まで辿り着いてそれをなお読みこみ、龍

馬の想いや人としての特徴などをあぶり出していく。そして歴史上

の偉人・坂本龍馬ではなく、人間・坂本龍馬を客観的に見つけてい

く作業の中で現代版龍馬としての骨格が完成していく。最初のお客

さんであるスタッフとそういったものを共有して、他人の視点に触

れさせる中でさらに形にしていく。



そうなってくると、強い。



「大河とはこういうものである」「龍馬とはこういう人である」と

いうしきたりや固定概念に対して「それって根拠ないじゃん!俺の

龍馬は違うぜ」と客観性をもって言える。

自分がこういう龍馬をやりたいというところから龍馬をやるにはこ

うやるしかない、というレベルまでいけちゃう。

龍馬は当時の常識や状況を変えようとした。だったらその龍馬を描

く俺たちだって変わらなきゃダメじゃん!と言えちゃうのだという。



ある意味で科学者たちのそれと似ている気がする。


いやいや脳って疲れないから。

ほらこの数値みりゃわかるでしょ?

みたいな。



つまり根拠を見つけると方法論が見えてくる。


という話だと俺は思いました。



これってホントにそれでいいの?

これって元々はどういう意味なの?



原点や根拠に立ち返り解決策を見つけ出す。

このサイクルを龍馬伝をつくる中で無限に繰り返しながら少しずつ

つくりあげていったんだろうなぁ。




あと個人的に好きだったのは、イチローの例え。

世界最高のバッターであるイチローですら打率は3割ちょっと。つ

まり残りの7割は打てていない、つまり失敗している。だったら俺

も仕事をする中で8割失敗したって大丈夫だろうと。もちろん失敗

を予定して失敗するわけじゃないけど、失敗したからそれがムダだ

ったなんてことは絶対ないくて。その8割が血肉に変わって2割の

成功の糧になっていくのだと。



この話は読書の例えとして、松岡正剛さんの『多読術』という著書

の中で言っていたことと完全シンクロ。

読書だって全部の本から吸収してやろうとか、頭から終わりまで完

璧に理解してやろうとか思う必要はない。イチローだって打率3割

なのだから、読書も3割でいい。10冊読んで7冊はしっくりこなく

ていい。けどその7冊があるから3冊の良読があり、後から必ず繋

がりをもって意味になるときがくると。



実際講演の最中には過去につくったプロレスを題材にした1分間ド

ラマというのも見せてもらったんだけど、まぁいわゆるNHKのコメ

ディという感じで。

大友さん自身はこれがあるからハゲタカのような作品がつくれると

言われていたけど、変な話、やっぱりこういう仕事もしてるんだな

ぁと思ってしまった。



人生五分五分なら上等、でしたね。


失敗してもいいと思うと、ずいぶんモチベーションも変わってくる。



まだどのジャンルに進みたいかはわからないけど、なにをやるにし

も「方法」が大事。貴重なお話をどんどん自分の血肉にしていき

いとテンションのあがった講演だったぜ。


2011年1月10日月曜日

岩井俊二のミカタ





1/9の0時からNHK総合で放送されていたAKBのドキュメンタリー、

twitter上でもかなり話題になっていた。中森明夫さんと宇野常寛

のやりとりで盛り上がったり。放送中にもAKB好きやTV好きのツイ

ートが並んで、まさにテレビとインターネットがデュアルにメディア

として連動いるように思えた。TV画面の横にTLが表示されていても

なんもおかしくない時代になったのかもしれない。



けどそもそも俺はAKBが好きなわけじゃない。アイドルの新しい在り

方として秋元康のプロデュースはスゴいけど、そこもそんなに特筆し

たいとも思わない。



俺が気になってるのは製作総指揮が岩井俊二だってこと。






俺がとても尊敬する映画監督の1人。


この人の映画を観て自分で自主制作をつくろうと思ったし、映画に限

らずPVやドキュメンタリーまで映像メディア全てを網羅する方法論

にドキドキしている人は少なくないはずだ。




寓話性を通した緻密な組み立てのもと社会と世界の間にアプローチす

る脚本と、圧倒的リアリティのある演出、そして映像美と音楽がその

骨格に見事な肉付けをする。


現実っぽすぎてウソみたい。ウソっぽい映像が美しい。美しすぎるけ

どなんか現実的。





「リリィ・シュシュのすべて」は気軽に何度も観れないし、ましてや

友だちと一緒になんて困難だけど、家で思い立ってDVDを手にとり、

全身の鳥肌と戦いながら2時間半を駆け抜けられるベストムービー。



岩井俊二という世界の見方だ。あれ、なんだか懐かしいし、知ってい

たはずなのに、初めての感覚。自分の中にあるのに見えてなかった部

分を彼が掘り起こす。







そんな彼がAKBを切りとっていた。オープニングから引き込まれた。



最終的にAKBのメンバーはいつか自分達のブームが去ることを知りな

がらも2011年を本番として走りつづける。そこにあるのは華々しい

アイドルの生活でもちやほやされる人生でもなく(まぁあるのだろう

けど少なくとも岩井俊二はそこに視点を置かなかった)、超フィジカ

ル系の日々と今のうちにと幻想のようなこの瞬間をハングリーに喰ら

いかかるメンバーの姿だった。毎日が本番。冷酷な現実を自分のすぐ

背後に感じながらも炎のような熱量で生きていく。薄氷の上にいるこ

とを知っているのに、もっとほしいと光の射す方へ走っていく。


ファンが夢を見させてもらえる代わりに、

彼女らもまた夢の中にいる。







そのファンタジー性に対して、ひとりひとりのインタビューのときの

背景がボケて色エフェクトをかけたシーンを中心とした映像美が物語

を際立たせる。

細かい点でも岩井俊二の工夫が見られたと思う。ラストでエンディン

グ曲等を使用せずにあくまでも年が明けてハイテンションな彼女らの

背後に見え隠れする未来への恐怖を匂わせる盛り上げない演出、異様

に見にくい縦スタッフロールと最後に番組名を出さない仕掛け(あく

までも見てほしいのはAKB48だということ?)などなど、岩井俊二

だから許されるのかそれともNHKのスタイルなのかはわからないけど、

ディテールが何倍も盛り上げていた。


単純な俺は観終わった後、見事に秋元康とAKBを敬ってしまった。

まぁ聞かないけどね。でもそういうことじゃなくて、曲じゃなくて人

が魅力的だと思わされちまった。

音楽だから音だろ、なんて説教しないで。単純なんだって俺の神経は。




番組づくりを編集と呼んでも洗脳と呼んでもいいけど、あっぱれだ。


これからの番組、というか映像メディアはますます面白くなる予感が

した。

2011年1月6日木曜日

束の間のクリスマス写真



ちょっと遅くなったけど年末にやったクリスマスパーティーの写真
があがりました。プレゼント交換でリュウのAutoboyをゲット。
の場でフィルムを入れてパシャっと!ISO100でホントに撮れるの
若干不安だったけど、問題なし。いやぁしかし楽しかったねぇ。

一方はサエコが目をつぶってて、もう一方は俺の指がフラッシュに
かかってる&あみのナゾ顔で笑
どっちを載せるか迷ったけど、どっちも載せちゃいます。

Autoboyは意外と調子がいい。ありがとねリュウ。
なんか地味だけど横っちょにリモコンがついてて、遠隔シャッター
ができちゃう優れもの。もらったその場で気づいていたら俺も集合
写真に入れたのにな。 日付も設定してないからメチャクチャ。
1989年1月とか俺まだ生後3ヶ月。



おまけに昨日の夜は「Annie Leibovitz」観ててなんだか幸せな気
分になっちまったし。












あらゆる人々にカメラを向けたAnnie。

雑誌の表紙や広告写真として、いわば商業写真の最前線を走り続け
ながらも、ミュージシャン達にも写真を撮られるなら彼女がいいと
言わしめた。商業的か否か。アートかどうか。その安易に引かれや
すい一線をもろともせず、両者を超えた純粋な「作品」。

こういうと語弊があるかもしれないけど、撮った写真がどう使われ
ようか、いくらになろうかなんて気にしていないのかもしれない。
あるのはただファインダーを覗き、被写体の中に入り込んでいくそ
のハイな瞬間を依存するかのように楽しんでいるのではないか。



まぁ実際の俺はこんなに落ち着いた雰囲気の生活を送ってるわけで
もなく、ほとんど人に会わないで部屋におります。嫌いな野菜を口
に押し込まれた子供のように、鼻をつまんで卒論をゴリゴリと強行
してます。
でも横にカメラがあるだけで少し落ち着く。ちょっとの隙間に映画
を観るだけでテンションがあがる。部屋にお香を焚くだけでぐっと
安定する。なんて単純。



ではでは、空見上げりゃキレイな星ですよ。